ある冬の日に、自宅で何気なく紅茶に浸したマドレーヌを口にした瞬間、幼いころにコンブレーで味わったマドレーヌを思い出す…。小説『失われた時を求めて』で、プルーストは無意識のなかに眠る自身の幼少期の記憶から、愛、死、芸術、当時のフランスの諸相まで、重層的なテーマを表現し尽くしました。
人々は何故、ワインに熱狂するのでしょうか?ワインは天の恵み、土地の恵み、そして、人間の愛情の賜物です。あなたがもしも、味わった瞬間に、涙がでるほど素晴らしいワインに出会ったとしたら、幸福な人間でしょう。そうですね、確かに、衝撃を受けるほどの哲学を感じるワインは存在します。
でも、ひとたびボトルが空になれば、その“味”や“感動”をふたたび求めても、なかなか出会うことができないのです。例えお金や時間がいくらあったとしても…。当たり前ですが、一度飲んでしまえば、もう物質としては存在しないのがワインです。素晴らしいワインは世界中の愛好家からの需要が供給よりもはるかに高いという現実があります。では、そんな素晴らしいワインを手掛けるワイナリーが、何かしらの理由でもう存在しないとしたら……?
今回は、そんな哀愁と誘惑がたっぷり詰まった、“失われたワインメーカー”を、フランスワインの作り手を中心にいくつかご紹介いたします。
ルネ・アンジェル
ワインラヴァ―に衝撃が走った訃報は、2005年の初夏に入りました。ドメーヌ3代目であるフィリップ・アンジェル氏が旅先にて急死したと…。
ルネ・アンジェルは1910年に設立されたフランス・ブルゴーニュの造り手です。ドメーヌ名にもなっているルネ氏はディジョン大学の教授でもあり、その素晴らしい仕事ぶりに、ドメーヌの立ち上げから瞬く間に評判となりました。
ヴォーヌ・ロマネ、そして一級畑のレ・ブリュレ。エシェゾー、グラン・エシェゾー、クロ・ヴージョといった特級畑も手掛けました。近年ドメーヌの名声をさらに上げたフィリップ氏は、ルネ氏の孫にあたる人物でした。悲しいことに彼の49歳という若さでの急死により、跡取りのいなかったドメーヌはそのまま廃業となってしまったのです。
華美、実直な果実味、長い余韻、そしてエレガンス。心をとらえて離さない、知る人ぞ知る造り手。スイスのバゲラ・ワインズで1157本のコレクションが日本円にして1億9700万円にて落札されたというニュースも衝撃的でした。
ジャッキー・トルショー
(ドメーヌ・トルショー・マルタン)
後継ぎがなく、2005年を最後に引退した、こちらも伝説的な造り手。ジャッキー・トルショー。長年、フランス国内で消費されていたブルゴーニュ地方のドメーヌです。彼のワインは収量が高いこともあり、このワインの本質が見出されていなかった時期もありました。しかし、彼の手掛けるワインは長期熟成向き。野性味と奥行きのある美しい味わいは、まるでピノ・ノワールについて書かれた古典文学のような、時間を経て語り継がれるべき普遍的な魅力があるのです。
じわじわとファンが増えていき、引退後、さらに手が届きにくい存在となってしまいました。最近も、とある漫画でクロ・ド・ラ・ロッシュが話題になりましたね。
所有畑はシャンボール・ミュジニー、モレ・サン・ドニ、ジュヴレ・シャンベルタンと合わせても7haほど。なかなかイメージがつきにくいですが、東京ドームが4.7haと思うと、意外と小さいな…と思いませんか?
腰が悪かった彼の引退は、仕方のないことだと思います。ただ、今でもプライベート用にワインは造っているとか⁉日々価値が上昇していくご自身のワインを、どんな気持ちで飲まれているのでしょう…。
アンリ・ジャイエ
そして、ブルゴーニュの造り手といえば、彼について語らないわけにはいきませんね。「ブルゴーニュの神様」とは一体だれが言いはじめたのか、皆口をそろえます。
あるお店でソムリエとして勤務していた私。あるお客様がご友人へ出世のお祝いに、アンリ・ジャイエ氏のクロ・パラントゥをプレゼントしていた事を思い出します。皆様、一口ワインをふくんでから、数十秒、誰もが言葉を失って目を見開いていらっしゃいました。どなたかの、消えそうなため息にも似た、「すごい」という言葉がワインの魅力全てを物語るようでした。
厳格さ、深遠な味わい。でも「ピノ・ノワールとは俺はこうあるべきだと思うぞ!」といわんばかりのピュアな果実味を声高らかに響かせてくれます。2006年に亡くなってしまったジャイエ氏が、自身の名義でリリースしたワインは2001年が最後でした。わずか3haの畑から伝説は始まり、生前、一目ジャイエ氏に会おうと、世界中からファンがブルゴーニュに訪れたといいます。
「すみません、アンリ・ジャイエさんはどこに行ったら会えますか?」「彼なら、あっちにいったよ」と、まるで違う場所を教えた男性こそ、ジャイエ氏だったとそんな逸話も。昔気質の男性だったようです。あまりにも伝説的な造り手なので、フェイクワインもかなり横行しています。もしもどこかで見つけても、とびつかずに、ご購入は出所などのご確認を慎重にすることをお勧めします…。
レイモン・トロラ
レイモン・トロラ、彼はフランス・ローヌ川右岸サン・ジョゼフのみの12haの畑で活躍した天才醸造家です。彼もまた、2005年を最後に後継ぎなくドメーヌの幕を閉じました。
かつては、長期熟成とは程遠い「お酢のような」ワインをつくっていたサン・ジョゼフ。聖人の名の付くこの地が、AOC認定されたのは1956年のこと。そして、多彩なキャラクターをもつ土地は半世紀で急激な進歩を遂げます。
トロラ氏は1950年から55年間この土地に愛情を注ぎました。彼は「我々は確かにワイン造りを学んだが、畑の耕し方を忘れてしまったようだ」と嘆き、急な斜面が続く土地で、手作業を辞めず、馬による耕作を行い自らのスタイルで栽培を続けました。
生きるexemplars of St-Josephと言われるトロラ氏のワインはピュアで、素朴、そしてソウルフルと表現されます。引退してもなお、今でもワインや土地への愛情はあふれんばかり。若手の造り手たちのもとに、トレードマークのバケツ型の帽子をかぶって突如現れては、愛情たっぷりの指導をしているとか。そんなトロラ氏のワインも見かけたら是非飲んでみたいですね。
今はもう「失われてしまった」造り手をご紹介いたしました。いかがでしたでしょうか?あなたの心を揺り動かすワインは、どこかに必ずあるはずです。そんなワインに出会うことができたのならば、あなたの自身も忘れていた「失われた」ストーリーが、想像もしていなかった世界へと動き出すかもしれませんね。
偉大なワインは、一冊の小説以上に、あなたを奥深い世界へと誘い出すことでしょう。
執筆者

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小野栄子(おのえいこ)
大学卒業後、広告代理店にてコピーライティングや雑誌の編集の仕事を経験。激務の中、息抜きに行ったワインバーでワインの魅力に魅せられ、ワインバーでの副業を始める。生まれ年のシャトー・ムートン・ロスチャイルドのワインを飲み、ワイン業界へ本格的に転職を決意した。J.S.Aソムリエ資格取得。前職を活かしつつ、ワインのコラムやインタビュー、短編小説を執筆。
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